小五夏入会 偏差値20以上アップした方法
全く中学受験なんて考えたこともなく、小一から小四まで海外で暮らしていました。
日本に帰ってきて友人に会った時、我が子達は県立の中高一貫校の一期生になる世代だと教えてもらいました。そんな進路の選択肢があることを知ったら、一度情報を集めた上で、今後の進路を決めたら良いなと思い、いくつかの塾に話を聞きに行きました。
四年生の二分の一成人式の時、学校で参観日があり、将来の夢について発表がありました。我が子は獣医になりたいという夢をしっかり語っていました。その夢は日本に帰ってきて五年生になっても変わっておらず、その夢を実現させるための進路を一緒に考えました。それには医学部に入る子が多い東海を目指すのがいいんじゃないかという結論になり、中学受験をしようと決意しました。そして一番通いやすい場所にあり、中学受験を専門にしてる名進研に入会しました。
塾は通ったことはありませんでしたが、海外で通信教育や公文をやっていました。ただ、やはり中学受験となると内容はかなり違い、難しさに戸惑う日々でした。夏期講習後のテストで取った点数は、今まで見たことないような点数が並んで、国語だけギリギリ50点超えただけ。偏差値42でした。みんなはもっと早くから入会し、この難しい問題に向き合っているので、これはみんなと同じペースでやっても追いつけないと思いました。ただ、何からやったらいいのか、分からないことも多く、夫婦共に中学受験の経験もなかったため、インターネットで情報を集めました。勉強を教えることは、名進研の先生方にお任せして、より良い環境作りを最後まで心がけました。
お風呂には暗記のポスターを貼り、朝食時間はYouTubeの聞き流しで問題を解いたりしてました。教材の整理整頓、プリント類の整理、筆記用具の見直し、丸つけ、スケジュール管理。特にスケジュール管理は徹底してやりました。私が算理社の一週間の復習テストを作成して丸つけ、間違えた数をチェックし、間違い0になるまで何度もやりました。更にその結果を一覧表にして、部屋に張り出していました。復習テストもレベル分けをして、基本問題ができたら応用問題と一つの単元でも分けてやりました。
間違えた暗記系の問題は、付箋に書き出し、机の目につくところに貼りました。暗記できたと思えた段階で、ノートに貼っていき、間違えた問題だけ集めたノートを作りました。テストの時にはこのノートを持参して見直しました。
また体力も大事だと思っていたので、それまで習っていたピアノと英語は辞めてしまいましたが、空手は六年夏まで続けていました。食事はテスト当日は何が良いか、色々試しながら毎回変えて、入試当日はその試した中から本人に選んでもらい用意しました。受験のストレスと反抗期で、六年頃からは、物は投げられ、プリントは破られ、大変な日々でしたが、テストの結果は少しずつ上がっていきました。
六年の夏頃が一番ピークで荒れていたと思います。この頃にはかなり家庭内で制約を厳しくして、ゲーム禁止、テレビもほぼ見ない、遊びに行くこともしないなど、楽しめるものはほぼなかったような生活でした。よくテレビのリモコンは持ち歩いていました。かなり縛りのある生活でしたが、六年夏期講習のテストでは、偏差値63.5、算数は5位に入る大健闘でした。
秋以降になると、国語の伸び悩みがかなり重くのしかかり、この辺りでサーパス、漢字の要をしっかりやるようになりました。長文読解の力をつけさせたかったのですが、家庭内では難しく、ここは塾にまるっきりお任せしている状態でした。またずっと朝学をしており、計算トレーニングと漢字は毎日やっていました。これは入試の当日もやりました。国語は何度も国語担当の先生に相談しましたが、毎日気にかけてくださったようで、苦手だった長文読解も少しずつですが点数が取れるようになりました。
一月に入ると、学校からインフルエンザで学級閉鎖のクラスが出たと連絡があり、一月後半は学校はお休みしていました。またうちは下に兄弟がいたので、二人とも休むと家ではなかなか集中しないため、この時は午前中は図書館を利用させていただき、午後の開校時間に合わせて塾に行きました。通っていた校舎で、我が子ほど自習室を利用した子はいないんじゃないかというくらい、この受験の期間は自習室にも通いました。家庭ではどんなに集中しようとしても難しく、強制的に勉強できる環境が良いと思ったからです。このような日々を送り、名電、名古屋、東海、滝の受験校全て合格することができました。
受験を通して、かなりの苦労はありましたが良い結果に結びつき、名進研の先生方には感謝しかありません。
我が家の体験記が、これから受験を迎える方の少しでもエールになれば嬉しいです。ありがとうございました。












